橋下君が知事になったばかりのころ、記者会見で「大阪府知事公館」の名前の話題になった。
知事として住むつもりはなく、それでは「知事公館」という名前はどうか、というような話だった。
出席していた新聞記者が
「では『大阪府公館』ならどうですか」
と橋下知事に問いかけた。
すると
「いいですね!」
その場で橋下知事が応じ、まもなく公館の門柱に「大阪府公館」の表札が掲げられた。
橋下君は人の話をよく聞く。
もともと行政に通じていたわけではないから、なにもかもが新鮮なのだろう。
その一方で、ルサンチマンとも言える役人不信があるものだから、
「どうしてそうなっているのか」という疑問に明快な答えがなかった場合、
「既得権益者がうまい汁をすっているに違いない」
という洞察がはたらき、仕組みを変えようとする。
いま橋下市長にはブレーンという人たちがたくさんいるようだけど、彼らはつまり、橋下君が求める「代案」を提示できる人たちだ。「いいですね!」と言われながら。
そうした代案が、新たな権益者を生むことになるのは想像に難くない。
税金の配分を受ける人や団体が、こっちからあっちへ移るだけだから。
でも、それこそが政治。そういう判断自体は政治家として当然のことだと思う。
あとは有権者がどう評価するか、ということだけ。
これは橋下君がつねづね言っていることだ。
ただ、橋下君の発言力が増すにしたがって、「いいですね!」と言われて自己実現を期待する人が増えてきているように思う。
例えば、みんなの党。
橋下君に「僕の考えと一緒です」と言ってもらって、陰り気味の人気を取り戻そうとしているようにしか見えない。
そういうあさましさを、橋下君はうまいこと利用する。
あさましい、といって切るのではなく、利用できるところまで利用する。
そうした打算を巧みにできるのは、政治家の資質の一つではあるのだろう。
でも、なんかそうしたあさましい人を見るにつけ、いやーな気分になる。
虎の威を借る狐というか。
マスコミもそうだ。
橋下君はメディアが指摘したことを受けて、政策に取り入れることがある。
批判を受けて改善するのは、正しい姿勢だと思う。
指摘する側も、時の権力者に「いいですね!」と言ってもらったら、悪い気はしない。
だからといって、橋下君にお追従して自己実現しようとしているようなキャスターや新聞記者をみると、いやーな気持ちになる。先生にこびる生徒みたいで。
「先生、○○君が授業中にお弁当を食べています!」
「先生、△△君が学校の帰り道に寄り道をしています!」
指摘としては正しいかもしれない。でも、人としてどうか。
報道機関は権力に近づきすぎると、批判勢力としての存在意義が薄れる。
あくまでも権力監視が第一だ。
橋下君に「批判ばかりで対案がない」といわれてもいい。
政策を示してその実現のために報道するなら、政党機関誌になりかねない。
維新の会でも自民党でも民主党でも公明党でも共産党でも、おかしいところを指摘する。
対案がないことを後ろめたく思うことはない。権力者の行動に対して、それをいさめる。
「批判だけですけど、それがなにか?」と開き直ればいいのだ。
先生にほめられたくて、仲間の告げ口をする学級委員長にはなりたくない。
こわい先生でも、やってることがおかしければ指摘する、勇気ある友だちでありたい。
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