2012年2月29日水曜日

不安とインテリとツイッター

橋下徹は感情を抑制できる人間だ。

テレビに映る彼はいつも容赦なく相手を威圧し、声をからして敵を批判する。 その威勢のよさに有権者は喝采をおくる。
だけど、かつて差し向かいで会った彼はとても静かだった。 僕は引きこもりですから、と自嘲して言ったこともある。 彼の行きつけの店のご主人も、テレビの橋下君をみて、あれは彼の本当の姿じゃないと話していた。

テレビの記者会見で、記者の質問が終わるか終わらないうちに、「はい!はい!」とかぶせるように言う彼を見ると、 そうやって相手を威圧しながら、自分の不安を打ち消そうとしているのだろうなと思う。 山ほどの記者を相手に、毎日、何十分も質問に答えるエネルギーは並大抵のものではない。 ちょっとした一言が命取りになるのが政治家だ。名古屋の河村市長のように。

橋下君のツイッターでのつぶやきは、いつも攻撃的だ。 いまのターゲットは学者たちだろう。 
「自称インテリ」と揶揄し、学者は現場を知らない、机上の空論、とこき下ろす。容赦ない。
だけど、これらの言いぶりは彼らしくない。 彼は目上の人には敬意をはらう。ジジゴロシと言われるほどに。 だから堺屋太一のような老人も彼を応援するために老骨にムチを打つ。 思想家の内田樹氏のこともツイッターではこきおろしていたが、たぶん二人で会えば意気投合する、と思う。
 彼は自分がインスパイアされる人を、ことのほか大事にするからだ。

でもオープンな場で問われれば、こき下ろすしかない。 橋下徹はインテリに媚びへつらってはいけない。なんだ、あいつも権威には弱いのか、と言われて人心が離れることを、彼は最も恐れている。虚勢を張るしかない。

しかし、それは彼の本当の姿ではない。

いちいち学者批判をしなくていいのに、とも思う。
でも、彼は不安なのだ。学者たちに指摘されることが。 自分のやっていることは、本当に正しいのだろうかと、常に不安を感じているのだ。 だって、個人で背負うには、あまりにも大きな期待を担わされているから。

だから必死で防戦する。 「所詮インテリは・・・」といってこき下ろし、自分の優位性を演出しようとする。 そうしないと耐えられないのだ。 感情を抑制できる彼にしても、いまのバッシングはあまりにも激しい。 俺は間違ってない、悪いのは理屈ばかりこねくり回す学者どもだ!


ツイッターでの悪口は、精神のバランスを保つための呪詛の言葉なのだ。


2012年2月20日月曜日

サンクチュアリと橋下徹

 街頭演説で、男は街宣車の上から有権者に呼びかけた。


 「選挙は戦いだ。一票という武器を持ったあななたちの戦いなんだ」


 大阪市の橋下徹市長の演説の一節のようにも聞こえるけど、これは浅見千秋という国会議員の演説である。といっても、池上遼一作画、史村翔原作の漫画「サンクチュアリ」の主人公。架空の人物だ。


 1990年代に連載されたこの青年漫画は、民自党の長期政権による政治腐敗を、カンボジアの戦乱で家族を失った二人の男が改革するフィクションである。
 もう一人の主人公、北条彰が暴力団の総長になり、裏社会から浅見を支える。
 読み終えたとき、私は感動して泣いた。


 それはともかく、現実の社会で「有権者の責任」を堂々と訴える政治家はまれだ。
 というか、私自身は聞いたことがない。
 大切な一票をくれる有権者に嫌われたら大変だから。
 「あなたたちの責任ですよ」なんて誰も言いたくない。


 でも、橋下市長は知事のときから一貫してそう言い続けている。
 批判の多い政策を決めるときも、「僕を選んだ有権者の責任」と言ってのける。
 それでも、「うっせえ、なに言ってんだ」と批判されない。


 なぜか。


 橋下市長は、有権者に「そうか、そうだったのか」と気付かせることが上手だ。


 首長が政策を決めているという当たり前のこともそうだし、教育委員会があんまり機能していなかったということもそう。大阪市役所は職員の労働組合が力を持っていたということも、彼が教えてくれた(多くの新聞記者たちも書いてきたけれど)。
 自治体の首長という責任ある立場の人が、本音ベースで政治を語ってしまう。
 だからこそ、「変えましょう」という言葉に力がある。


 彼は政治の素人だった。
 それが知事になって大阪府庁に入り、政治と行政の現場に入ったとき、「これ、おかしくね?」という事柄につぎつぎとぶちあたった。
 ふつうなら「ま、そういうものです、知事」と幹部職員にたしなめられて終わりだ。
 だが、彼は「それはおかしい」と言いまくった。
 当然、素人である有権者の共感を呼んだ。


 で、有権者責任論。
 これも当たり前のことを言っているにすぎない。


 「今の政治のていたらくは、あなたたちの責任なんだ」
 と彼は言っているのである。
 だって、本当のことだから。


 知事や市長にそう言われて、有権者は「ふむ、たしかにそうだ」と思う。
 だって、本当のことだから。
 そして彼は、「一緒に政治をよくしていきましょうよ」と、いざなう。
 有権者は「そうだな、そうしようか」となる。
 立場のある人が本音で語ることの効果を、彼は思うままに活用しているのだ。


 ちなみに、サンクチュアリの浅見千秋は、物語のラストに首相公選制で首相に選ばれる。
 これもまた、橋下市長の描くゴールと同じ。
 と私はみている。

2012年2月18日土曜日

橋下徹とダース・ベイダー

部屋のテレビで映画「スターウォーズ ジェダイの帰還」を観ながら、ふと大阪の橋下政治を考えた。

皇帝はルーク・スカイウォーカーに言う。「敵意をパワーとして利用するのだ。憎しみに身を任せろ」。
ダース・ベイダーも重ねて言う。「ダークサイドに身を投じろ。それしか仲間を救う道はない」。

皇帝は帝国を統治する。非常時に勇ましい弁舌で議会を取り込み、大権を手に入れて銀河系をまとめ上げる。
だけど、統治下に入ろうとしない共和国には容赦しなかった。圧倒殲滅しようとした。

で、橋下政治。敵をつくり、憎しみに沸く世論をエネルギーにしながら、相手を殲滅していく。例えば市役所の職員労組。

批判されるだけのことを労組がしてきたのは間違いない。ざまあみろ、と思う市民が多いのもうなずける。
でも、そうした負の感情に裏打ちされた政治に、どこか不安を覚える。

じゃあ、橋下政治は良くないのかと問われれば、いや悪くないです、と答えるしかない。だって、それ以上に今までの政治が頼りなかったから。
ただ、パルパティーン議長は銀河系の混乱の中で大権を得ていった。そして帝国の皇帝になる。

橋下政治。どこか、これでいいのかなと思ってしまう。最近、橋下市長を持ち上げる記事ばかりの新聞やテレビを見るにつけ、なんか気味が悪い。

政治の可視化と橋下徹

テレビニュースや新聞記事を読むと、「橋下徹市長は○○日、△△することを決めた」という書き出しが目立つ。これまでは「大阪市は○○日、・・・」というのが一般的だった。


「誰が」というのはニュースで重要な情報だ。なぜ「大阪市」が「橋下徹市長」になったのか。
それは、意思決定した人間が誰か、はっきりしているからだ。


大阪市に限らず、自治体の首長は最終決定権を持っている。だからこそ、選挙で選ばれる。
でも、これまではそこがあいまい報じられてきた。あたかも組織としての「大阪市」が決めたように伝えられてきた。そんははずはないのに。


国政も同じだ。「政府は」とか「厚生労働省は」というように組織の名前で語られてきた。それが慣習だった。NHKはもっとひどい。「厚生労働省が○○することに、なりました」という。「なりました」というのは、「自然にそうなりました」という表現だ。誰も責任を負わない。さすが国営。


ただ、これまでは「報じていなかった」だけで、従来から首長は最終決定をしてきた。橋下市長の前の平松市長もそうだ。さまざまな政治的な思惑を持ちながら、首長として意思決定をしてきた。
見えないところでやっていたことが、見えるようになっただけのことである。


橋下市長はなにかと交渉事を公開する。それが自分にとって議論を有利に進める方法だと考えているからだ。


すべての交渉事がテレビカメラの前で行われることがいいのかどうかは、わからない。橋下市長だって、非公開の交渉や密室談合はいくらでもある。


ただ、教育委員会だったり、労働組合だったり、いろんな人たちと交渉をしながら行政の方向性を決めていく。その当たり前のことを、有権者にわかりやすく示したことはいいことだ。だからこそ、政策の善し悪しや、決め方の善し悪しを論じることができる。

2012年2月15日水曜日

おかんと民意


橋下市長がかつて大阪府知事になったばかりのころ、大阪府庁の幹部職員にあれこれ指示していて、逆に職員から意見されたことがある。そのとき、彼はこう言い放った。


「あなたが183万票とってから、言ってください」


ひどい言い方だなーと当時は思った。
ただ、いまは思う。たぶんそれが精いっぱいの反論ではなかったか。


タレント弁護士から知事になった彼にとって、膨大な情報と経験を持つ役人はまともに太刀打ちできない相手だった。そんなとき、唯一のよすがは「民意」だった。


彼の発言をみると、「民意」を出すときは論理的に説得仕切れない事柄が多い。
教育の問題や大阪都構想など、「これしかない」という明確な回答のない問題を決断するとき、彼は「民意」を持ち出す。


独善的な言い方にも聞こえるが、重要な政策決定をするときの彼の不安さの裏打ちでもあるようにも思う。橋下市長を「傲慢だ」と片付けるのは、彼を理解する助けにならない。そんな人間がこれだけ有権者に支持されるのは、「有権者は愚かだ」というほかに説明がつかないからだ。






橋下市長はかつて、「おかん」を持ち出すことがあった。
「おかんに怒られまして」といった具合に、問題の収束をはかる。
たとえば、朝日新聞批判。


社説で「弁護士資格を返上しては」と書かれたことに激怒し、一時は「廃刊にすべき」とまで言い放った。奈良県の総務部長が、産経新聞の不買運動をフェイスブックに書いて陳謝したのとはわけが違う。知事という地方自治体の長が新聞社の廃刊まで迫ったのだ。


だが、結局は数日後に発言をやめることになった。そのときの言い訳が、「うちは朝日新聞で食わせてもらっていて(両親は販売の仕事をしていた)、母親から怒られました」というものだった。


論理的に「廃刊」の発言を引っ込めようと思ったら、「発言を取り消します」という、よくある政治家の言い訳と同じになってしまう。そこで持ち出したのが「おかん」という非論理的な理由だった。笑いにして、ごまかしたのである。
これをやられると、論理的な反論はしにくい。「おかんとは、何事だ!」と朝日新聞がいきりたっても、読者は引くだけである。「もう謝ってるんやから、許してやり」ということになる。






「民意」と「おかん」
いずれも橋下市長にとって議論を制する殺し文句であることに、違いはない。